山下敦弘監督、妻夫木聡・松山ケンイチ主演、映画「マイ・バックページ」を観て - ドラマな人々@遊Blog

山下敦弘監督、妻夫木聡・松山ケンイチ主演、映画「マイ・バックページ」を観て

こんにちは。
遊(ゆう)です。
いつもご訪問いただきありがとうございます。

山下敦弘監督
妻夫木聡・松山ケンイチ主演
映画「マイ・バックページ」


を観ました。
(ちょっと時間が経っていますが…)
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1971年夏。
若手ジャーナリストと学生革命家の出会いが、
自衛官殺害事件を引き起こす…。
運動と革命に学生たちが、そして社会が揺れた時代。
二人の若者を通して、そこに何が見えてくるのか。

描かれる時代背景ばかりに視線を向けると、
この映画は社会派映画ど真ん中のような印象を受けます。
実際、私も観るまでは、かなり政治色の強い社会派作品だと
ばかり思っていました。

しかし、実際に映画を観はじめると、社会派映画の色合いは、
みるみる失せてゆき、そこに描かれているのは、紛れもない
『青春』であることに気づかされます。

何故、山下敦弘監督は、
この時代の若者の『青春』を描こうと思ったのでしょうか?

想像するに、
それは、あの時代の若者たちが、決して特別に政治的な
存在であったわけでなく、各々が内包している『青春』は、
今の時代の若者にも通じる、いや、今だからこそ共有できる、
不確かで、希望の見えにくい今だからこそ描けると思ったのではない
でしょうか?

若者特有の心理…
大人になってしまうと忘れ去る何か…
若者の漠然とした『不安』という心持ちを
あの時代の若者たちだからこそ、端的に、
しかもセンセーショナルに描くことが
できると確信したのではないでしょうか…
そんな気がします。

世代を越えて共有できる若者の心理…

それは、
強烈に何者かになりたい

『憧れ』

と何者かになるために伴う

『覚悟』

を持つことへの

『恐怖』

から来る

『逡巡』

のような気がします。

安田講堂陥落を機に斜陽の時代を迎えた全共闘運動。
とはいえ、まだまだ多くの学生たちが、政治の季節に酔って
いたであろう1969年から、1972年の浅間山荘事件で
連合赤軍が解体していく狭間の短い時代…

それは、それまでの若者たちの持っていた自信が、
若者たちの理想と社会の現実を完全一致させる強いエネルギー
によって描かれる一つの理想郷としての社会の『カタチ』に対して、
それまで揺らぐことのなかった『確信』が『不安』へと変貌しは
じめた『時代』だったのかもしれません。

加山雄三が演じた若大将とは対極の青春。
石原裕次郎が演じた青春とも違う。

踏み出せない青春。
突破できずに悶々とする青春。
あらゆる事象に懐疑的であり、
自己肯定と自己否定を激しく往復する青春…。

そういう青春は確かにあります。

ジャーナリストという『カタチ』。
革命家という『カタチ』。

主人公の二人は、自分の理想とする『カタチ』に
強い憧憬を抱きつつ、はっきりとした『カタチ』に
なることを拒み続けます。

「カタチ」なき自分に対する自己否定と肩書きによる虚飾
「カタチ」ある者への批判と「カタチ」なき自身の自己肯定

妻夫木聡さん演じる沢田雅巳は、ジャーナリストを志し、
雑誌記者となりながら、真のジャーナリストになりきれない。

取材対象者との関係性は、
私情をはさまぬシビアなものではない。

CCRの『雨を見たかい』で意気投合し、
宮澤賢治で共鳴しあうという、
まるで学生同士が級友をつくるような感覚で
取材対象との信頼関係を維持しようとしているように思えます。

私情がジャーナリズムに先行してしまう。
彼は、自分がジャーナリストになりきれないでいる自分を
自覚し、自己否定をしつつ、最後までジャーナリストになろう
とはしない…できない。

いっぽう、自称赤邦軍リーダーの梅山は、革命家である自分を
演出するのに必死だ。
理論武装だけでは意味がなく、武装勢力となることでこそ
自己実現ができると信じる自分と、そうなることの覚悟が
出来ない弱い自分を守るために更なる理論武装を重ねていく
梅山…。

赤邦軍というグループの存在すら不確かであり、
まるで勝手に名刺をつくって詐欺をはたらくペテン師と変わらぬ
のでは?と思うくらいの若者の思い込み、自己演出は、
現実とフィクションの識別を拒否し、
自らが革命家のリーダーという虚飾の肉体を伴って
革命家のあるべき行動を模索し、結局自らは行動せず、
他者に行動を強いていく。

フィクションも現実空間で行動に移せば、本当の現実に
昇華することができる…
三文役者が四畳半の劇空間から街に出て、
現実空間で街頭芝居の演出家よろしく俳優たちを野に放ち、
自らは四畳半にて喝采か、罵倒か、社会の反応に意識過剰と
なり、結局は権力を畏れるあまりに演出家としての自分を
放棄し、傍観者を決め込んでいく。

他人を巻き込み、自らは抜け道を確保する、
悲しき逃亡者。

そもそも、梅田なる人間は仮想革命家としての芸名であり、
片桐優という本名で自らの理想を語ることすらできない。
捕まらないためではない…
おそらく、自信がないのだ…リアルな自分に。

虚実が混淆とした存在…
その不確かな自らの存在に希望を抱き、
あるいは不確かであることに苦しむことが
『青春』なのかもしれません。

現実を追い求めるべきジャーナリスト、沢田雅巳も
実際のジャーナリストとしての生活からは、語るべき
言葉をもてず、自らの傍観者的ポジションに不満を抱き、
ならばと、肩書きを偽ってドヤ街に潜入し、傍観者である
自分の存在を否定し、自らが実践、体験することで、
傍観者ではない自分を感じられると信じたものの、やはり、
そこには自分を偽って、ニセモノとして存在しながらホンモノを
観察する傍観者の自分しか存在しないことを痛感し、そんな
センチメンタリズムに流されたジャーナリストとしての自分を
否定的に捉えながらも、結果として肯定しつづけてしまう。

沢田はどこにいても異邦人のままなのです。
当事者にはなれない。
そして、彼はそのことを知っている。

結局、沢田は自分が記事を書くというポジションでいるかぎり、
常に観客であり、社会で実際に存在する演者にはなれない、という
ジレンマに苦しみつづけ、自らの存在をフィクションの中でしか
捉えることが出来なくなる…そういうタイプの人間のように思います。

だから、沢田は梅山にシンパシーをおそらく感じてしまうのです。
梅山も当時者になれない自分にもがいている。
でも、きっと梅山は期待にこたえてホンモノの演者として
行動を起こすに違いない。
その舞台を自分は桟敷席の最前列から観客として目撃し、
渇望するスクープとして一報を伝え、
人間梅山を語り、梅山の革命を評論したい…
そのためなら、自分は喜んで梅山の役にたとう…

そんな夢見心地な関係を
沢田は梅山に求めていたように思うのです。

革命家梅山は、実は
本名片桐という一学生にすぎません。
梅山はフィクションの山を築き、
自らがこしらえたフィクションの
山に埋もれていきます。

闘うために使いもしない赤邦軍のヘルメットをつくり、
行動の証拠としての小道具として活用し、
行動を伴わないエセ広報を打ち、
自分自身を鼓舞し、行動の証として残す小道具づくりに
邁進する。

自らをホンモノであると信じるために、
ホンモノの革命家に会い、自分を認めてもらいたがる。
行動を起こすために、ありもしないリンチの大芝居を打ち、
芝居の延長として仲間を朝霞駐屯地に送り込み、自らは
高みの見物を気取ってしまう。

演出家ですらなく、
観客になることで、
当事者のはずの梅山は
権力の前では、行動の実行者ではなく、演出家でもなく
ただの傍観者である自分を主張し、
最終的には逃亡者の権利を得ようとします。

卑怯者というレッテルに
梅山の存在は落ち着いてしまうのです。

ここまで書いてくると
『青春』は社会という舞台で自らが演者になろうと
舞台袖まで近づくものの、野次ばかり飛ばし、あるいは
自らは観客席にいながらにして、舞台をかきまわすための
小道具を投げ込むばかりのようなもののように感じます。

そして、舞台に上がるか観客でいるかの境界線で『逡巡』している
『青春』は『社会』に生きるうえで、あたかも無意味のような
錯覚さえ覚えます。

『青春』はフィクションに満ち溢れているから。

もし、『青春』がフィクションで現実を綴ろうと躍起になる
ことだとしたら、そのフィクションの世界には、実体はないのか…

そう問いかけると

そうではない

という答えが、この映画から返ってきます。

クライマックスは突然やってきます。

自ら自衛官殺害事件に間接的に加担することになった
ジャーナリスト、沢田。
新聞記者を辞し、裁かれ、その後は映画評論などで生計を立て
いるらしい。

試写会の後、偶然立ち寄った赤ちょうちん。

そこで、自らを偽り、潜入ルポを試みた際に生活を共に
した男と再会する。

懐かしむ男。
戸惑う沢田。

問われる近況。
答えられぬ沢田。

それもそうだ…
沢田は当時、フィクションとして存在していたのであり、
決して生活を共にしたのではなく、
傍観し、観客として感傷的に
文章をつづっていただけなのだから…

互いに通じるものは何も無い。
上っ面の付き合いに、心が通うことなど無い。
あるのはニセモノだった自分に気まずい思いと
相手に懺悔する気持ちだけだ…

ましてや、相手はあれから家庭をもち、自分の店をもって
地に足をつけ、現実をしっかり生きている。
とても自分を語るなどできやしない…
沢田はそう思ったに違いありません。

自分が恥ずかしい…

そう思った瞬間

近況を語ろうとしない沢田に対し
かつてのチンピラは、
さりげなく、とてもさりげなく
さりげない言葉をかけてきます…

『生きてりゃいいよ。それだけで。』

不覚にも、その言葉を聞いた瞬間、
沢田が、妻夫木聡さんが涙を流すより先に、
私は嗚咽していました。

そして、とめどなく涙を流す沢田を…妻夫木さんを
観ながら、私の心は優しさに包まれ、気持ちが軽くなっていき

『生きていりゃ、それでいい。』

という優しさに包まれているのでした。
⇒⇒このブログをもう一度読みに来るかも…⇒


沢田の琴線に触れたのは、彼が生きる現実の中ではなく、
ニセモノとして生きた、フィクションとして生きた世界
で一緒だった男の言葉でした。

フィクションと現実が、はじめてつながった瞬間。

そして、フィクションの中にも現実を生きるための
肥しは十分にあったことを知り、上っ面とばかり
思っていた絆のほうが、実社会の絆以上に心に
響く優しさを持っていたりする…。

『逡巡』する『青春』

それは、虚勢を張ったウソに満ちているかもしれない。
でも、そのウソは時を経ることで、いつか現実として、
当時関わった人々の記憶に現実として紡がれていき、
互いに否定すべき過ちとしてではなく、
『逡巡』し、ウソをついたことをも含めて肯定しても良い、
自分を許していい、という心持ちにさせてくれるものなのかも
しれません。

そして、それは決して深く付き合った相手から与えられる
というものではなく、ウソをついて騙した相手から投げかけ
られるのかもしれない。

騙したことを罪に思った自分が情けない…
彼は、はなからそんなことは関係なく生きている。
ウソだろうが、ホントだろうが構いやしない。

生きてりゃいいじゃないか、それで。

これほど、救いを与えてくれる言葉はありません。
これほど、優しい言葉はありません。

私はその言葉を聞いて泣いてしまった自分に驚き
しばし、目を閉じて、自分と映画の主人公たちの
『逡巡』に思いを馳せました。

なお、この映画は評論家の川本三郎氏の実体験を綴った
原作をベースにしており、また、作者が映画に造詣が深く
映画や演劇に関する著書も多数あることが、山下敦弘監督
が親近感を覚え、映画化する一つのきっかけになったので
はないかしら、と推測します。

なんだか、映画の感想になると
ドラマよりも感情的になってしまうようで、
お恥ずかしいかぎりです。




それでは。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。

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2012-05-03 20:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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